『神々の食物』チョコレート |
野生のカカオの木は中央アメリカで4000年前から自生していた。 カカオ・ビーンズはカカオ椰子の木の幹に結実する果実の種子である。 人類がこの種子を食品として食するようになるまでは、鳥や猿たちがもっぱらこの果実を賞味した。彼らがこの果実をついばみむっしっているうちにその種子をばらまき、その結果、中央アメリカ中にカカオの木が広がった。 しかし、人間は16世紀まで、カカオの実を食べたことはなかった。 最初、人間はチョコレートを飲み物として知っていた。 古代の中央アメリカの原住民部族はチョコレートを飲んでおり、トルテック族(10〜11世紀にメキシコを支配していたと考えられている部族。アステカ族の先行部族)は彼らの祭壇の前で香料を焚くとき、祈りを捧げる者に宗教行事に参加する一種の許可証としてカカオの枝を与えていた(?)。この儀式が最高頂に達したときチョコレート色の犬が犠(いけにえ)に供された。 「チョコレートの神」の怒りを鎮めるためにコロンブス前のニカラグア人はその年のカカオの種蒔き前に13日間、禁欲生活を守り、月の神につつがない収穫を祈念した。(ニカラグア:1528年、スペインの植民地。1838年、中米連邦解体とともに共和国として独立。) メキシコのイツア族は「食物と水の女神」に捧げる犠牲の捕虜を浄めるためにチョコレートを一杯飲ませた。 アステカの伝説によれば、彼らにチョコレートを与えたのは知恵と知識の神(または土地を耕して作物を植えることを教えた農耕の神でもある)ケツアルコアトルであるという。ケツアルコアトルはまた、アステカ人に絵画、銀・木・羽細工を教え、暦を与え、トウモロコシの栽培方法を教えた。ケツアルコアトルがカカオの木の育て方と果実の種子からチョコレートを作る方法も教えたといわれている。(アステカ:14〜16世紀に現在のメキシコを中心に栄えた部族帝国。首都テノチチトランは現在のメキシコ・シティ。大ピラミッド建設、生きた人間の心臓を太陽神に捧げる儀式で有名。) カカオは鳥獣によって最初自然に広がっていき、トルテック(アステカ以前にメキシコを支配)、イツア、マヤはカカオの何たるかを知っていた。特に、ユカタン半島にカカオの種を栽培したのはマヤ族である。彼らは西暦600年頃、人類史上初のカカオの植林園を作った。これがマヤ族の富の源泉となった。当時、カカオの種は黄金かそれ以上の貴重品で、貨幣がわりに使用され、8粒で兎、100粒で奴隷1人が買えた。(マヤ:紀元前5世紀〜16世紀にユカタン半島、メキシコ南部、グァテマラに栄えた文明。マヤ族はグァテマラを発祥の地とし、勢力を拡大した。) アステカ族はマヤなどの種族を滅ぼし、彼らのカカオ農園を受け継いだ。 初めてチョコレートを口にしたヨーロッパ人はコロンブス(1451〜1506、ジェノヴァ生まれ)だといわれている。これは、1502年、彼の4回目の航海のときであったという。しかし、彼はチョコレートにはほとんど興味を示さなかった。 チョコレートの価値に気づいた最初のヨーロッパ人は、スペイン人コルテス(1485〜1547)であった。彼は1519年モンテスマ王2世からチョコレートを供された。大饗宴の最後にこの"賓客"は、蜂蜜とヴァニラを混ぜた、冷たい、泡立てたショコアトル(XOCOATL)を黄金のカップで飲まされた。1519年はケツアルコアトルが再帰を約束した52年に1度巡ってくるアステカ暦の「一の葦」の年にあたっており、モンテスマ王2世以下、アステカ人は"白い膚、顎髭"の征服者、コルテスを救世主として迎えたのである。コルテスによってアステカは 1521年に滅ぼされた。 野生のカカオの種子をすりつぶして作った、苦く酸味の強い飲み物を平然と飲んだコルテスをケツアルコアトルと信じこんだのである。アステカ人はワインやトウモロコシの粥、トウガラシ、コショウを混ぜて飲み、ハイになっていた。モンテスマ王宮での一日の消費量は2000杯と決められており、モンテスマは自然の水を使ってアイス・チョコレートも飲んでいたという。 コルテスは当時のスペイン王、カルロス1世(1500〜1558・神聖ローマ皇帝、ドイツ皇帝)にこの「神々の飲み物」は「勇壮果敢な兵士をつくり、カップ一杯飲めば一日食物を取らずにすむ」と書き送った。さらに彼は植林園の経営を王に勧め、スペインはハイチ、トリニダード、そして、アフリカの西海岸の小島フェルナンド・ポに至るまでカカオ園をつくっていった。 スペイン王室はカカオの効用を認め、その後、約100年間禁輸品として国外に持ち出しを禁じた。 スペイン王室でチョコレートに砂糖を混ぜて飲むことを思いついたのはカルロスV世(1601〜1643)であった。砂糖はオリエントか輸入する高価なものであった。砂糖以外にオレンジ汁、バラ汁、シナモン、ヴァニラ、アーモンド、ピスタチオ、ジャコウ、タッツメグ、クローブ、オールスパイス、アニシド等が混ぜられた。 16世紀当時、ヨーロッパの流行の発信地はマドリッドであり、チョコレート飲用の風習もここから広まっていった。フランスへチョコレートを持ち込んだのはスペイン王、フィリップ3世の長女アン王女で、14歳の花嫁は14歳の花婿ルイ13世(1601〜1643)のもとへチョコレートを引出物として持参して嫁した。この二人の間に23年後できた王子が"太陽王"と呼ばれたルイ14世(1638〜1715)である。ルイ13世の宰相リシュリューもチョコレート愛好家であった。 ルイ13世が1643年に死んだ後、王子が成長するまでの8年間、アンが政治を執った。当時、チョコレートは恋人に裏切られる貴婦人の恋物語に欠かせないものになっていた。裏切られた貴婦人は必ずチョコレートカップに毒薬を混ぜて復讐することになっていた。また、裏切る恋人の方も「もう少し砂糖を加えたほうがいいね。毒を入れると少々苦みが増すのでね。今度男にチョコレートを飲ませるときは、このことを考慮したまえ」などといって、雄々しくバッタリと倒れることになっていた。 一人のフランス人がロンドンにチョコレート・ショップを開店したのは1657年である。「チョコレートという名の西インド産のすばらしい飲み物」の広告が"パブリック・アドヴァタイザー"紙に掲載されている。 アンの王子ルイ14世に、アンの兄でスペイン王であるフィリップ4世の王女マリア・テレサが嫁いだのは1660年である。このマリア・テレサが情熱を傾けたものが二つあった。ひとつは夫君ルイ14世であり、いまひとつはチョコレートであった。 18世紀のオーストリアではチョコレートには課税されていなかったので、庶民の飲み物として広まった。1743年、オーストリア女王マリア・テレージア(1717〜1780)の依頼によって王室一家の肖像画を描いたスイスの画家、J.E.ルアトルドは、毎朝、目覚めのチョコレートを運んでくれる少女をモデルに「美しいチョコレート・ガール」という有名な絵を残している。また女王一家が朝のチョコレートを喫している絵には、人形を手にした当時、5歳のマリー・アントワネット(1755〜1793)が描かれている。 1723年にフランスの王位についたルイ15世には、マダム・デュ・バリーとマダム・ポンパドールという二人の愛人がいたことで有名である。後世の伝記作家によると、マダム・ポンパドールはトリュフとチョコレートを入れたセロリのスープを催淫薬として、また、ダイエットのためにといって朝食がわりにとっていた、という。 マダム・デュ・バリーはフランス革命の間、イギリスに逃れていたのであるが、帰国後、ロベスピエールによって処刑された。その処刑の罪名のひとつに、彼女の愛人たちにチョコレートを催淫薬として飲むように強制した、というウソのような本当の話がある。 ルイ16世と結婚したオーストリアの王女マリー・アントワネットは、蘭の球根の粉末入りチョコレートを当時の新製品として、フランス王室へ持参した。蘭の球根は肉づきのよい魅力的な女性をつくるのに効果があるといわれていた。神経を休めるのに効果があるとされていたオレンジの花びら入りのチョコレート、デリケートな胃を強くするのに効果のあるアーモンドのミルク入りのチョコレートも彼女と共にフランスに入った。 チョコレート・ケーキのレシピがウィーンの料理の本に初めて記載されたのは1778年のことである。「ショコラティ・トルテ」という名のそのケーキにはあいかわらずシナモン、クローブ、ジンジャーなどのスパイスがチョコレートの苦みを消す目的で使われていた。 スパイスなしで、チョコレートに砂糖、小麦粉、卵の材料でケーキが料理の本にあらわれるのは、1799年の「ウィーニーズ・ベーカー」の中である。 1832年、16歳の見習いシェフが見事なチョコレート・ケーキを創って、歴史に名を残す3人のウィーン人の仲間入りを果たした。その名はフランツ・ザッヒャー。他の2名は音楽家ヨハン・シュトラウス(1825〜1899)と、心理学者ジークムント・フロイト (1856〜1936)である。 彼のケーキはチョコレートにバターをたっぷり使ったケーキ台にアプリコット・ジャムでグレーズし、ココアのフォンダントで仕上げたもので、「ザッハトルテ」の名で有名になる。最初のザッハトルテはオーストリア王室のテーブルに供された。ザッヒャー家はホテル経営で世界的に名前を知られている。ホテル・ザッヒャーはウィーンのオペラ座の向かいに、現在も同じ場所にある。 1937年、ウィーンを訪れたスウェーデン生まれの映画女優グレタ・ガルボは、マスコミぎらいで有名であったが、新聞記者の質問に「この街の光輝に満ちたお菓子、ザッハトルテをおなかいっぱい食べにきたのよ」と来訪の理由を述べた。 ハリウッドの女優キャサリーン・ヘッパーンは70歳のとき、雑誌「グッド・ハウスキーピング」のインタビュー「いまなお、素晴らしいスタイルを保っている秘訣は?」と聞かれて、つぎのように答えた。「これまでずっと、チョコレートを食べてきたお蔭よ。一日に1ポンド(450g)っていうこともしょっちゅうよ」、と。 以上 |
カカオの歴史と文化 |
カカオの歴史と文化 アオギリ科の常緑樹、樹高4〜10b。長楕円形の葉は長さ20〜30a。 カカオの生産可能な地域は赤道を挟んで南北20度の地帯である。 桃色の萼(ガク)と5弁の黄色の花弁をもつ花が幹で直接、多数花を咲かせるが、果実になるのは200〜300個のうちの一つだけ。 果実は長さ15〜20a、径7〜8aのラグビーボール型。緑白、濃い黄色と色を変え、熟すと赤味をおびる。 果実の内部は5室に分かれ、白い果肉に包まれた長さ2.5a、幅1.5aの卵形の種子が20〜50個詰まっている。 この種子を特殊な木樽で発酵させると、独特の香気と紅色がつく。これを乾燥させたものがカカオ豆。(ファーメンテーション) カカオ豆はローストして、種皮と胚芽を除去してニブだけにする。これを5段ロールにかけてすり潰すと液状になる。粒子の細かさは20ミクロン以下。約50%の油脂分を含んでいるため摂氏30度前後で液状を呈する。(カカオ・マス) カカオ・マスを圧搾して油脂を得る。体温が融点であるため座薬、口紅などの原料として重用される。(カカオ・バター) カカオ・バターを搾った後に残る塊をココア・ケーキと呼び、これを粉末にしたものがココア。 カカオ・マスにカカオ・バターを追油し砂糖と香料を加えたものがスイートチョコレート、これにミルクを加えたものがミルクチョコレート、このミルクチョコレートからカカオ・マスを取り去ったものがホワイトチョコレート。 カカオ・マスだけでは常温のときボロボロになるので、砂糖やいろいろのスパイスに水分を加えて飲料として飲んでいた。しかし油脂分が53〜55%もあるので、どうしても油ぽっいので、カカオ・マスから油脂分を除去してココアを作った。(オランダのケンラーデ・ヴァン・ホーテンが1828年に発明して特許を確立。) しかし、搾油したカカオ・バターの処分に閉口したが、ヒョウタンから駒で、カカオ・マスにココア・バターを追油して砂糖を加えると、何と常温で固まる現在のようなチョコレートができたのである。英国のフライ&ソンズの会社が初めて「食べるチョコレート」を世に問うたのが1847年のことであった。飲料から食べるチョコレートになったのはそんなに古いことではない。 カカオにはテオブロミンというアルカロイドが約1%含まれている。アルカロイドは窒素を含む塩基性有機化合物で神経系統に激しく作用する。医薬に使用されるのはこの理由による。 カカオの学名は`Theobroma´「神々の穀物」の意。「カカオ」の名はマヤ族語の「カカウアトル」に由来する。 日本には江戸初期、長崎経由で入ったといわれる。 記録に残る最も古いものは、板倉遣欧使節団がフランスのチョコレート工場を見学した、というもの(第47巻。1月21日の日記に「チョコレート製造工場に至る。これも仏国の名産なる菓子なり...云々」とある。岩波文庫「米欧回覧実記」(三))。 日本で初めてチョコレートを製造したのは東京両国若松町の風月堂である。「貯古齢糖」の名で1878年に広告を出している。(明治事物起源) |
<参考文献> エンサイクロペディア・ブリタニカ 森永製菓編『チョコレート百科』 東洋経済新報社刊 "CHOCOLATE"by Marcia & Frederic, CROWN PUBLISHERS, N.Y. 1986 "Every Life of THE AZTEC" by Warwick Bray, DORSET PRESS, 1987 |